〔不全は欠点だけなのか〕
楽しく険しいリハビリクッキング
最近は毎日調理に勤しんでいます。リハビリの一貫として〈リハビリクッキング〉と称して,家庭の調理を引き受けているのです。
これがなかなかに面白く,かつ大変です。面白いのは私が調理好きだから。大変なのは,調理は力仕事だからです。
最近の悩み=切れない包丁
リハビリクッキングで最大の悩みは,思うように身体が動いてくれないこと。この悩みは調理全般だけでなく,買物にも影響します。
買物カゴ一杯の食材の運搬は,今の私には重荷過ぎます。いきおい,買物カゴ+カートという利器に頼りながらの運搬になります。
次に大きな悩みは,包丁の切れ味がよろしくないこと。そのために調理の間中,私は手に力を込め,腹筋を使いながらでないと,包丁を扱うことができないのです。
現在私が使っている包丁は,鶏肉の皮を切断するのが難しく,トマトの薄切はおろか,大根の千切りもできません。タマネギのみじん切りなどはフードプロセッサーの力を借りてごまかしているというのが実態です。
調理に時間が取られるくらいならまだ良いのですが,最近は食材の味わいにも影響が出始めています。また,誤って指を切ったりする回数も増えてきています。
買替で解決するか
そこで現在,包丁を新調すべく時機を見計らっています。もう既に欲しい商品は確認が終わりました。
しかし私は,根本的な問題に行き当たってしまいました。それは,
「包丁は切れ味がよければ良いのか」
というものです。
何を言っているのかとお思いの方が多いでしょう。包丁は切れ味がすべてじゃないかと。
でもね,私はこんなことを考えてしまったんです。
「切れなくて潰すくらいが丁度良い食材もあるんじゃないか」
ってね。
たとえばみじん切り。みじん切りが細か過ぎると,あまり効果を発揮させたくない成分まで活性化させるんじゃないか。
非常に細かく切り分けると,当然ながら切られた食材の細胞組織は粉みじんになります。ひょっとするとその過程で,苦味や臭みなどの成分まで滲み出てくる場合もあるんじゃないか。
たとえば薄切り。切れ味が良過ぎると,どこまでも薄く切り分けたくなり,食材(特に野菜)の表面すべてに細かなひび割れを生じ,口当たりを損なう場合もあるんじゃないか。
まあ,書き込んでいて
「へ理屈だなぁ」
とも思うのですが,包丁新調に向け一気に動くんじゃなくて,立ち止まって考えてみたわけです。
ニンニクや生姜,唐辛子などは,潰しながら切るくらいが丁度良い場合もあるような気がします。
そして話は包丁を離れ
ここまで考えてきて,私はふと考えたんです。
「これはなにも,包丁の切れ味だけの話じゃない」
と。
切れ味が良過ぎる包丁を,なんでも白黒をはっきりつけて正義と悪に二分する思考過程と重ね合わせてしまったんですよ。
またはすべてに結論を出してしまおうとする完璧主義にも,似たところがあるんじゃないかと思い至ってしまったり。
切り口の美しさばかりが賞賛されるけれど,味わいの深さはまた違ったところにあるということと人生の深さとの共通項に思いを馳せてみたり。
自分が障碍者になってみて,各々の個性が大事にされる社会の実現って本当に大変だなと気づかされて,それがこういう思索に結びついているのだなと,今は思っています。
それでもやはり,切れ味の鋭さは包丁に必要だと思うので,実際は購入に向けて進みます。しかしその包丁を使う際には,その傍らに切れ味の鈍った現在使用中の包丁も置いておきたいと思います。そして場合に応じて使ってみようと考えているのです。